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「英国を駆け抜ける旅」第1話:ロジャー・W・スミス

ロジャー・W・スミスの工房に続く道は、フィリップ・デュフォーの工房に続く道とさほど変わらない。しかし、スイス人が孤立を伝統に背負わせるのに対し、この英国人の場合は自らに課した試練であるかのようだ。

2016年7月、ankopi編集部は英国を12日間かけて旅し、時計製造の現状から歴史の深みまで、英国産時計に関するあらゆることを探った。欧州担当エディター(執筆当時)のアーサー・トゥシェットとシニア・デジタルプロデューサー/ビデオグラファーのウィル・ホロウェイ、そしてドローンのスペシャリストであるマウロ・ベラノバが、ロンドンを北上してマン島に向かい、途中で何度か寄り道しながら、1,400マイル以上を走破した。この旅は、ベントレーモーターズの協力により実現した。同社は、この旅のためにフライングスパー W12を快く貸してくれたからだ。それでは、5部構成のシリーズの第1話をお楽しみいただきたい。

マウンテンコースを走っているときに現れる美しい海岸線、この島で最も有名なレースであり、時には命を落とすこともある伝説的なマン島TTレースの痕跡が、狭いカーブに設置された標識として現れなければ、私たちはラ・ヴァレ・ド・ジュウ(スイス・ジュウ渓谷)に向かって走っているのだと錯覚してしまうだろう。この島の離れにあるロジャー・W・スミスの工房に続く道は、フィリップ・デュフォーの工房に続く道とさほど変わらない。見渡す限りの野原を切り裂き、文明とは逆方向に向かう孤独な道だ。しかし、スイス人が孤立を伝統に背負わせるのに対し、この英国人の場合は自らに課した試練であるかのようだ。

スミスは、ジョージ・ダニエルズ(故人)と共に時計を製作するため1998年にマン島に移住した。ジョージ・ダニエルズは、同世代で最も偉大な時計師として広く認められている人物だが、それまでは工房を共有することに、ほとんど興味を示していなかったという。実際、ダニエルズは以前、スミスにはっきりとその旨を伝え、彼のキャリアの初期に弟子入りの機会を与えなかったことにも表れている。当時、アイルランド海を越えて英国ボルトンに住んでいたスミスに、ダニエルズは手書きの手紙で“君に来てほしいとは思わない”と書き残している。

その後、ダニエルズは心変わりする。スミスは、ダニエルズの“一人の人間に全時計産業を集約する”という理念に惚れ込んで、5年以上かけて作った2作目のハンドメイドの懐中時計で自らの将来性を証明した(1作目の懐中時計は、ダニエルズに全く駄目だと一蹴されていた)。しかし、この老齢の時計師が、自身の輝かしいキャリアの中で最も広範囲にわたる最後から2番目のプロジェクトを完成させるためには、どうしても助けが必要だった。彼は自身が発明したコーアクシャル脱進機をスイスの時計メーカーに採用してもらおうと何十年もかけて孤軍奮闘してきたが、最終的にオメガそれを製品化することにしたのだった。オメガは彼の発明の権利を取得し、50本の限定版に使用するために、生産ラインから50個のムーブメントを彼に送ってきた。ダニエルズは、2人がかりでないと成し遂げられない仕事だと悟ったのだ。

ダニエルズとスミスは、その後3年半かけてオメガのミレニアムシリーズを完成させる合間を縫って、ダニエルズの最後の腕時計であるコーアクシャル・アニバーサリー限定モデルの企画のために工房に戻った。2001年、前のプロジェクトを終えたスミスは、個人的なプロジェクトに専念するため、マン島北部に自分の工房を設立し、レトログラードカレンダーを搭載する“シリーズ1”の製作に着手した。

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